2002年1月18日

ブリスベン川 The Brisbane River

Kangaroo Point の Cliff-side を歩いている時、家内が私に「ブリスベン川ってどうしていつ来てもこんなに濁っているんだろう?」と言う。
その答えは、遊歩道沿いに点々と置かれているステンレス製のパネルですぐに見つかった。
そこには、こんなことが書かれている。

『……最初にここを訪れた開拓者達は、いつも澄んでいるきれいな川でたくさんの魚やブラック・スワンを見ることができ、岸辺ににはすいれんが咲き大きな木々が聳え立っていた。50年前でさえ、泳げるくらいにきれいで、川沿いには砂浜があった。……今では、開発が進んだために、雨が降るたびに上流の泥や汚染物質が川に流れ込み、ブリスベン川はこんなにも濁ってしまった……。』と。


蛇行する Brisbane River
いつ見ても、こういう風に茶色に濁っている

心臓部をゆったりと流れるブリスベン川はまさにブリスベン市のシンボルであり、上水や工業用水の水源として、City Cat や Cross River Ferry の走る水路として、レクリエーションの場として、そして文化や歴史を語るテーマとして、ブリスベン市民にとってのみならず、そこを訪れる人々にとっても、ブリスベン市と切っても切れない関係にある。
1823年に Oxley がこの川を発見し、2年後現在の North Quay 辺りに植民地の本拠を移して、その後多くの人々がこの地を目指し今日の繁栄を築き上げたのも、この川の魅力に惹かれたからであったし、私達がブリスベンを訪れおこがましくも "Our Fabourite City" とこの街を褒め上げたのも、ブリスベン川の存在が大きな理由の一つになっている。

ブリスベン川は、オーストラリアの南東部に聳える「大分水嶺」 'the Great Dividing Range' の麓に源を発し、Moreton Bay までの約320kmを曲がりくねりながら流れている。



ヨーロッパからの入植者によって発見されるまでは、唯一先住民の一部の部族にしか知られていなかった。その土地と川は彼らの生活を支える源であり、豊富な食糧と共によい漁場を提供していた。
ヨーロッパ人の入植後、川は貿易、輸送、防衛戦略などの上で州都ブリスベンを建設するための重要な役割を果たすようになる。
ダムの建設、砂州の撤去、流域での工業団地や住宅団地の建設などの人間の活動が大きく川を変貌させ、川は次第に茶色く濁っていったのである。

ブリスベン市は、現在のそして将来の人々のために「より健全な水路」 'healthier waterways' を取り戻すべく力を注いでおり、近年ブリスベン川の環境は徐々に改善されつつあるという。

洪水の歴史
このように地域に大きな恩恵を与えてきたブリスベン川だが、それはまた、大きな洪水を繰り返しブリスベン市をはじめその流域の人々を悩まし続けてきた歴史も持っている。
1893年の洪水については「ブリスベンの歴史」の中でも触れたが、最近では1974年1月の洪水が特筆すべきものであろう。

1974年1月26日、ブリスベンは記録的な豪雨に見舞われた。短時間に降った317mmの雨は、排水管を溢れさせそして詰まらせ、いろいろな物を壊し流し去った。停泊中だった大型のオイル・タンカーを含む4隻の船が、コントロールを失ってブリスベン川の下流まで流された。
14000戸を超える住宅が避難を余儀なくされ、その大半は修復不可能なほどの損害を蒙った。空港、鉄道、道路、水路とも使用不能となり、ブリスベンは陸の孤島と化した。泥水と悪臭が消え去るまでに5日間を要したという。
この洪水により、16名の命が失われ、被害総額は3億ドルに達した。
(下の写真は、いずれもクイーンズランド博物館ホームページから)


Edward Street の状況


氾濫したブリスベン川と South Brisbane


Albert Street の状況


Victoria Bridge から South Brisbane 方向を見る

ブリスベン市は、水害に打ちひしがれた市民を鼓舞し復興への足掛かりを作るため、1982年の Commonwealth Games (過去の大英帝国連邦傘下にあった世界72カ国が参加して4年に1回行なわれる国際スポーツ大会)と1988年の世界万博の2大イベントを成功させ、そして見事に立ち直ったのである。

私達が将来再びブリスベンを訪れる時、ブリスベン川がこれ以上汚れず、少しでもきれいな水が流れていることを期待するものである。

2002年1月15日

ブリスベンの歴史(入植からクイーンズランド州誕生まで)

Brisbane は、人口863,769人、周辺まで含めると160万人の人口を擁するクイーンズランド州の州都である。
その生い立ちは、19世紀初頭の流刑植民地の設営にまでさかのぼる。
最初の入植からクイーンズランドが州として独立し、ブリスベン市が誕生するまでを、物語風に綴ってみた。

最初の設営
「罪人達はどこか他のところに送ってしまえ!」
New South Wales の自由移民達は、口々にこう要求した。
知事ブリズベン卿 Sir Thomas Macdougall Brisbane は、新しい流刑移民(彼らは 'worst kind of felons' と呼ばれていた。)を送る適切な場所を見つけるため、シドニーの北部に調査団を派遣する。
長距離輸送は船で行なわれていたため、よい停泊地のあることが求められ、それも大きな川に近いサイトが理想だった。
1823年、Mermaid 号で Moreton Bay へ向かったジョン・オクスレー中尉 Lieutenant John Oxley (右図)が Point Skirmish に近づいた時、多くの原住民が興奮して走りよって来るのを見つける。なんと、そのリーダーは白人だった。彼は Thomas Pamphlett、船が難破して7ヶ月間も原住民と一緒に住んでいたのだった。
Pamphlett は、歩いて2日間行けば大きな川があるという。
「それが私の探していた川なのでは?」
Oxley は Pamphlett を同行させ、4日分の食料を用意してボートでこの陸水ルートを探索する。それは Oxley が思っていたよりいいところだった。大きなさまざまな種類のユーカリの木や草原があった。
彼らは約80km進んだところで川に到達する。Oxley は、広々とした草原と真水の存在を確認して大いに喜び、この川を知事の名にちなんで Brisbane River と名付け、その土地もブリズベンと呼ばれるようになった。
翌年、彼は Redcliffe の近く Humpybong に最初の植民地を設営する。
この Moreton Bay 植民地は、後にブリスベン川を上って現在のブリスベンの地(今の Queen Street と William Street の角の辺り)に本拠を移す。

囚人達の時代
Moreton Bay あるいは Brisbane 植民地は、非常に急場しのぎでスタートしたものだったが、翌年の1825年末までには、囚人と役人を含む約100人の男女が住むようになる。
しかし、当時そこにあったのは、軍隊の売店、兵士と囚人のための少数のテントとバラック、木こり小屋、レンガを焼く窯、鍛冶屋の炉くらいなものだった。
司令官ローガン Captain Patrick Logan (1825-1829) は非常に厳しく無慈悲な人物との評判が高く、この流刑植民地は重罪人を送り込む最悪の場所と言われていた。しかし、彼はまた非常に有能な人物でもあり、ブリズベンの町は彼のリーダーシップの下で速いスピードで発展する。
Logan はブリズベン川上流を調査していたとき何者かによって殺害される。ある人達は原住民を非難したが、囚人が犯人だろうとする人達も大勢いた。
囚人達の時代には、自由な開拓者は50マイル以内への入植を許可されていなかったが、1837年、Andrew Petrie が町の建物を監督するために政府に指名されてブリズベンに到着し、最初の自由入植者となった。
1842年2月、Moreton Bay を「流刑」植民地ではなく自由植民地とする旨の宣言が NSW 政府新聞に掲載された。

自由植民地
ブリズベンの町はゆっくり成長する。1844年には、人口はまだ540人であり、しっかりした建物や住宅はほとんどなかった。
条件は悪かった。食物は、干ばつの時には乏しく、雨が降れば荷馬車は泥に沈みいばらの道 bush track は道路として用をなさない。攻撃的な原住民達が待ち伏せしているため、町を離れることは危険だった。
人々は孤立感を味わっていた。

新しい州知事グリップス卿 Sir George Gipps は、ブリスベン植民地が大きな可能性があると信じていた。
長老教会の牧師 Dr John Dunmore Lang の立てた移住計画に従い、630人の移民が1848年から49年にかけて3隻の船 Fortitude, Chaseley and Lima で到着する。彼らは Fortitude Valley に入植し 'Langites' と呼ばれた。
人口は、North Brisbane、South Brisbane、Kangaroo Point および Ipswich の4つの拠点で、1851年までに8375人にまで増加した。
しかしながら、植民地はいまだ NSW 政府の支配下にあり、遠隔地のため行政管理は行き届かなかった。
1853年、海軍将校 Captain J.C. Wickham が政府駐在官に任命される。

新しい州の誕生
1859年12月10日、クィーンズランド州の誕生がアデレード・ハウスのバルコニーで宣言され、ジョージ・ボウエン卿 Sir George Bowen が初代の州知事として着任した。
ブリズベンは今や人口7000人の町に成長していたが、それは中心のない町だった。長い道によって囲まれた中に大きなオープン・スペースがあった。
政府は2つの英国の銀行から金を借り、建物の建設プログラムを開始する。不運にも、これらの銀行は倒産し、建築工事も中断を余儀なくされ、賃金未払いの労働者達が通りで暴動を起こした。
1866年9月、職を失った250人の鉄道工事の労働者が、政府にことの重大さを訴えるため Ipswich から州議事堂に向かってデモ行進する。彼らが議事堂に到着した時、その数は125人まで減っていたが、これは平和なデモだった。しかし、数日後、怒った失業中の移民が政府経営の店に石を投げつけるという暴力事件も発生した。

ブリスベン・ブーム
1870年代および1880年代には、オーストラリアの他のどの地域よりも多くの人々がクィーンズランドにやってきた。
1871年38,226人だった人口は、1891年には104,276人にまで跳ね上がり、ブリズベンはブームに沸く。
その富は、金、農業、そして造船業のような地域産業から生まれ、電気、公共交通機関、上下水道、医療施設などが整備されていった。
1888年までには、大通り Queen Street 沿いに囚人によって建てられていた仮設の建物は、地域経済の力強い成長を反映した大きなよくデザインされた建物に置きかえられた。
George Street に建てられた Parliament House や Queensland Club の建築様式は、1880年代の楽天主義を見事に反映していた。


19世紀末の Queen Street
未舗装の道路には、馬車が走っている。

ブリスベン川の洪水
ブリスベン川は何度もの洪水の歴史を持っている。しかし、1893年に襲った洪水は入植以来最大の大洪水で、今まで冠水を免れていた地域をも水浸しにし、すべてのものを流し去ってしまった。
ほとんどの家屋は川に流され、Victoria Bridge にぶつかってバラバラに壊れ、破片の山となった。被災者は着の身着のままで高い場所に避難し、身を寄せ合ってボートの助けを待った。
この洪水で、今の City のエリアの低地にあったほとんどの木造建築物は修復不可能なほどに破壊されてしまったといわれている。
さらに数週間後に襲った洪水では、ブリスベン川に係留されていた3隻の船が流され、Botanic Garden に乗り上げてしまう。幸い、この船は2週間後にまたやってきた洪水で、奇跡的に川に戻された。
11人が溺死し、190人が負傷するという大災害だった。


洪水の後の Victoria Bridge。まだ木造だった橋の手前は、
流れてきた木材が堆積されている。

1901年、6つの州がオーストアラリア連邦の発足を宣言、翌1902年には、ブリスベン市の発足が宣言された。

2002年1月12日

"Bus & Ferry Fares"

これからブリスベンを訪れ、ゆっくりと滞在する予定の方のために、市内のバスやフェリーの料金システムがどうなっているかをご紹介しておこうと思う。

Bus Zones
City Bus のバス料金は、City を中心に描かれた同心円で5つに区分された Zone があり、乗降する区間がいくつの Zone に跨っているかで決められる。(右の図が Zone Map
Zone Map は、インフォメーション・センターなどでパンフレットや路線毎の時刻表 Time table を貰えば載っている。
Zone Map ではゾーンの境界 Zone Boundary が大まかにしか分からないが、時刻表にはその路線のゾーン境界がどこにあるかが表示されていて、あらかじめ自分が何ゾーンのチケットを買えばよいかが分かる。判らなければ運転手に行き先を言えば何ゾーンかを教えてくれる。
私達が泊まった宿 Paramount の前のバス停から City までは、残念ながら、ほんの1つか2つのバス停の違いで2ゾーンになる区間だった。



Single Trip Tickets
いわゆる普通の片道切符である。行き先を告げるか、ゾーン数を告げて運転手から買うことができる。ぺらぺらの紙の切符だ。
 AdultConcession
1 Zone/Sector$1.80$0.90
2 Zone/Sector$2.60$1.30
3 Zone/Sector$3.40$1.70
All Zones/Sectors$3.80$1.90


Off-Peak Saver
ウィーク・デーの午前9時から午後3時半までと午後9時以降の off-peak hours (通勤ラッシュ時を除く時間帯)、および週末と祝祭日に限定で使用できる割引切符。
定められた時間帯あるいは日であれば、すべてのゾーンに一日何回でも乗り降りできて、市内をぶらついたり買物で往復するのに大変便利な切符である。
AdultConcession
$4.60$2.30

乗車時に運転手に申し出て買えばよい。磁気テープの付いたちょっと堅めの切符で、読み取り機に通す。
Paramount から City まで、普通の切符では片道$2.60、往復で$5.20だが、この切符を使うと&4.60。1回往復するだけでもこちらの方が60セントの節約になる。
ただ、平日の場合、午後3時半のバスに乗り遅れると、9時以降までこの切符は使えないので、どこかで時間をつぶして余分なお金を使う羽目になってしまう。
もちろん週末はこんな心配をする必要はないが……。

Day Rover
もっと便利な、曜日時間帯に関係なくすべてのゾーン一日乗り放題の切符。
行動範囲が広く、こまめに何回も乗り降りする予定なら、これがおすすめだろう。
AdultConcession
$8.40$4.20

この切符も運転手から買える。

Ten Trip Saver
長期の滞在で、もっと頻繁にバスを利用する予定なら、回数券のようなこのチケットが役に立つ。
10回使えて、片道切符に比べて20%の割引になる。
 AdultConcession
1 Zone/Sector$13.80$6.90
2 Zone/Sector$20.80$10.40
3 Zone/Sector$27.20$13.60
All Zones/Sectors$30.40$15.20


Ferry
ブリスベン川を上り下りする City Cat や Inner City Ferry Service、川の対岸を結ぶ Cross River Service では、バスの Zone が Sector と呼び名が変わるが、バスの Single Trip Tickets と同じ料金が適用され、バスと同様に Off-peak Saver や Day Rover の割引がある。ただし、Off-peak Saver は、フェリーと City Cat については週末と祝祭日には適用されない。

チケットはどこで買う?

Off-peak Saver や Day Rover は運転手から買える(ラッシュの時間帯は買えないことがある。)が、これらとTen Trip Saver などの Pre-purchased Tickets は、市内に約240ヶ所あるほとんどの newsagency や市の Customer Service Centre など、 "ticket re-seller" と呼ばれるところで買うことができる。

Transfer 乗り換え
Off-peak Saver や Day Rover ならバスもフェリー、City Cat も共用だから、同じ切符でどちらにでも何回も乗れるが、Single Trip Tickets や Ten Trip Saver を使う場合、2時間以内に限って、1枚の切符で違う路線のバスへの乗換えが可能だ。
例えば、Paramount から City に出て、Mall でコーヒーでも飲んでから Lone Pine にコアラに会いに行くとすると、それぞれ2ゾーンの区間で別々にチケットを買うと$5.2になるのだが、通しで買うと3ゾーン、$3.40。時計を気にしながらコーヒーを飲んでバス停に駆けつけ、最初に乗車した時から2時間以内に Lone Pine 行きに乗れば大丈夫だ。
Single Trip Tickets なら、最初のバスあるいはフェリーに乗車(乗船)する時に運転手に最終の行き先を言って Transfer Ticket を買えばいい。
Ten Trip Saver なら、読み取り機が最初の乗車時間やチケットの内容を読みこんで、自動的に「2時間以内であるか、有効なゾーン内であるか」を判断してくれるそうだ。(実は今度の滞在では、この乗り換えは経験しなかった。)
バスとフェリーも、通しの切符を買って同じように2時間以内の乗換えが可能だが、この場合はそれぞれのゾーンとセクターが加算された料金となるので、あまり実益はないかもしれない。

Concession
料金表に "Concession" とあるのは、子どもや学生、お年寄りや復員軍人など、市が認めた人達に適用される特別運賃。すべて普通運賃の半額だ。5歳以下の子どもは無料となっている。

※このシステムおよび料金は、あくまでも私たちが旅行した当時のものであることをご承知おき願いたい。

ところで、バスの車内にこんな表示があった。
"SCHOLARS AND CHILDREN ARE REQUESTED NOT TO OCCUPY SEATS WHILST ADULT PASSENGERS ARE STANDING."

2002年1月10日

現在の "Queenslander"

戦後は、新しい時代の中で 'Queenslander' が次第にその本来のアイデンティティーを失って行った時代と言っていいかも知れない。

元来、典型的な 'Queenslander' の設計においては居間、寝室、などの居室を重視した間取り構成と装飾に重点が置かれ、キッチン、浴室などは裏側のベランダや床下部分に追いやられた補助的空間として扱われてきた。
しかし、ガスや水道の普及、女性の地位の向上などにより、利便性と働きやすさなどが求められた結果、それらはようやく2階の住宅内部に取り込まれ、より広いスペースを占めるようになる。
家族構成員それぞれのプライバシーの保護が要求されて部屋数も増え、間仕切り壁は従来の1枚壁から厚い壁に取替えられた。
これらの結果、家全体の間取り構成に変化が生じ、通風のため設けられた中央の廊下が消えた。
古きよき時代へのノスタルジアもあって、多くの人々は現在の家を改造をする道を選択しようと試みたが、ベランダが壁で覆われ、床下にブロックが積まれて新しい部屋に変わった。
木材で造られた構造や外壁は、湿潤な気候の中では傷みも早く、防腐剤の塗布、ペンキの塗り替えなど日常のこまめな維持管理が欠かせない。新建材の登場により、例えば、木の窓はアルミ・サッシュの窓に、木材の支柱は鉄骨の支柱に取り替えられた。
設計上、技術上の限界に直面して、あるいは維持管理コストの負担に耐え兼ねて、過去の様式を捨てまったく新しい建築資材と建築様式を取り入れる人も多くなり、1930年代以前に建てられた由緒ある 'Queenslander' は取り壊され、次第にその数を減らしていった。


外壁の修理、塗り替え工事の現場
板壁の維持管理は結構大変な作業。

保存意識の高まり

1970年代以降、歴史的・文化的遺産としての 'Queenslander' への評価が高まり、保存と回復への動きが強まっている。
その最も大きなインセンティブとなっているのは、不動産市場におけるプレミアム価値。建築様式が正しく伝承され、念入りに維持管理された住宅は、中古住宅市場でより高い価格で評価されるのだ。
また最近では、中級以下の小さな住宅を求める若い人達の間でも、古い時代への憧れから 'Queenslander' を求める人が増えているらしい。
新聞の広告欄などには、"Custom built Quennslander" "Well renovated Queenlander" などの表示が結構目につく。州政府や市当局もこれらの先人の遺産を保存する活動を奨励しており、適切な修復や維持管理の方法についてアドバイスを行なっている。

家が動く?
比較的小型の 'Queenslander' の場合、高床の支柱の上に上部の住宅がボルトや釘で簡単に止められているだけのケースが多い。
現実に古い住宅の床下を覗いてみると、支柱と上部の梁の間に木片を適当に挟んで高さの調節をしている。地震の多い日本では考えられないことだ。
従って、支柱をより高くして見晴らしをよくしたり、下部に新しい部屋を造ったりする時は、ジャッキで上部を持ち上げ支柱だけを取り替えるという荒業を使うことがあるそうだ。
それどころか、支柱を切り離した上部だけを(家の規模によっては、いくつかに分割して)トレーラーで別の敷地に運んで新しい支柱の上に乗せれば、「はい、でき上がり」。新築の場合よりもコストが割安になるだけでなく、工期も短くてすむ。
ケアンズで聞いた話では、1年に何件かは家の動いている風景を見られるということだった。
なんとも豪快な話ではないか。

2002年1月7日

"Queenslander" の歴史と発展

'Queenslander' は、初期の入植者のみすぼらしい掘っ立て小屋に始まり、1930年代以前の方形屋根のバンガロー・ハウスの登場に至るまで、さまざまな知恵と工夫が加えられ発展を続けてきたクイーンズランドの特有の木造住宅の建築様式である。
他の州に比べて木材が手に入りやすかったこと、増大する入植者の住宅需要に早急に対応する必要があったことなどから、政府も短期に建築可能な木造の住宅を奨励した。
クイーンズランドでは1850年代には既に製材所が建設され、住宅建設に必要な木材が豊富に供給される体制が整っていた。
鉄板で葺かれた屋根は 'Queenslander' の一つの特徴だが、これは熱帯の風雨に瓦より抵抗力のある材料として、遥か遠くから運ばれた。

木材は安価な材料ではあったが白蟻の侵入を受けやすい。この白蟻への対策が画期的な工夫を生む。
白蟻の有無を目で監視できるように家全体を支柱で持ち上げ、支柱には上部構造へ白蟻の侵入を防ぐために鉄板でキャップが被せられた。
支柱で持ち上げられた家は、通風がよく多湿な気候に適している、床下を洗濯場、物干し場や倉庫などの多目的スペースに利用することで上部に余分なスペースが生まれるなどの波及効果をもたらした。
一方、クイーンズランドの住宅は、一般的にその地域の風向きに関係なく道路に向いて建てられていたが、これは、熱伝導性の高い鉄と絶縁性の低い木材という材料上の特質と重なったとき、室内の暑さを悪化させる要因となる。彼らは家の向きを風向に合わせる方法でこれを解決した。
風通しをよりよくするため窓やドアは開け放たれたが、昆虫や害虫の侵入を少しでも少なくするため、それらの棲息する木や藪が家の周りから取り払われることもあった。
家が地面より高くなったため周囲から覗き込まれることが少なくなったことで、より開放的な生活が可能となり、大きく突き出した屋根の下にベランダが設けられた。
ベランダの出現は、暑い室内から脱出して、そよ風に吹かれながら椅子やテーブルで食事をしたりお茶を飲んだりという、クイーンズランド特有の新しいライフ・スタイルを生んだ。

1930年代に建てられた典型的な 'Queenslander'

'Queenslander' は、その後いろいろな要素が付け加えられ、磨き上げられ、さまざまに飾り立てられて、1890年代までには既にクイーンズランドの風土にマッチした最高のレベルまでに達っしていたものと考えられる。
ビクトリア(2世)朝の繁栄の時代において、完璧な形で建てられた 'Qeenslander' はそこに住む主人の社会的・経済的成功の証し(あかし)となり、Queenslander のステータス・シンボルとまでなったのである。

"Queenslander" のいろいろなスタイル
次のイラストは、初期の掘っ立て小屋的なスタイルから第二次世界大戦後の復古調の大型住宅まで、Queenslander の発展と変遷の様子を描いたものだが、必ずしも矢印のとおりに流れていったものではなく、途中からいろいろな形で機能的あるいはデザイン的な変形が加えられ、多数の発展形が生み出されていったと考える方がいいだろう。
(画像は、クインズランド博物館のホームページから拝借した。)


初期の基本形
(1820s - 1930s)


切妻屋根
(1820s - 1930s)



方形屋根
(1870s to 1930s)

非対称の方形屋根
(1870s - 1930s)

切妻側のベランダ
(1910s - 1930s)



バンガロー
(1870s - 1930s)


非対称のバンガロー
(1900s to 1930s)


戦後のリバイバル
(???? - 1980s)

《次へつづく》

2002年1月6日

"Queenslander"

これは「クイーンズランド育ちの人」または「クイーンズランドに住む人」の話ではなく、クイーンズランド特有の高床式木造住宅の話である。

ブリスベンでもケアンズでも、そして途中でバスが止まった小さな街でも、下の写真のような、高床式で白やアイボリー色のペンキで塗装された木造住宅をたくさん見かけた。
これらの住宅様式を "Queenslander Style" あるいは単に "Queenslander" と呼ぶ。
またこの様式で建てられた住宅そのものもまた "Queenslander" と呼ばれていて、 "Queenslander" に住み Queenslander らしいライフ・スタイルを貫くことが、 Queenslander の誇りであり、憧れであるという。(ちょっとややこしい!)





"Queenslander" の特徴
写真でお分かりのように、 'Queenslander' は構造および外観上、一般的に次のような特徴を持っている。
木造の高床式
間仕切りあるいは外壁も木造の板壁
屋根は、切妻、方形、または寄棟で、鉄板あるいは波板鉄板葺き
前面、後ろ側、あるいは全周にベランダ
日差しを遮り、通風をよくするための装飾的な外観
扉や窓はできる限り開放できるようになっていて、内部は入り口から裏側まで広い通路が一直線に貫き、風が抜けやすくなっている。
床下は、車庫や物置に利用されているが、できるだけ風通しを妨げないように利用されていて、熱帯、亜熱帯にあるクイーンズランドの暑い夏をできるだけ涼しく過ごそうという工夫が各所に見られる。
また、庭には Tropical な高木、中木が沢山植えられ、強い日差しを遮っている。

ちなみに、「切妻」、「方形」、「寄棟」という屋根の形式は、それぞれ下の図を参照いただきたい。

切妻方形寄棟

《次へつづく》

2002年1月5日

"ie" を付けて愛嬌のある Aussie Slang に

今回は、比較的 Aussie と話す機会が多かった。
不勉強のせいで、前回に比べて英語力は格段に落ちている。それもビールを飲みながらだから、'Pardon?' 'Excuse me?' 'What did you say?' などと、何度も訊きかえしながらの会話である。
こういうときには 'Pardon me?' だけでは恥ずかしいので、いろんなきき方を用意しておいた方がいい(笑)。

そんな会話の途中で耳にしたいくつかの Aussie Slang の中で、何となく「かわいいな!」と思ったのが、名詞の語尾に "ie" を付けて一種の親しみを込めて表現する習慣だった。
オーストラリアあるいはオーストラリア人を "Aussie" といい、野菜 'vegetables' を "veggies" という。
また、"barbie" は 'barbecue' のことであって、「バービー人形」ではない。
よく飲んだビールの小瓶を 'stubby' というが、これも "stubbie" と綴ることが多い。
なんとなくほほえましい感じだ。
他にどんな言葉があるんだろう?
帰る途中にケアンズの空港で買った John Blackman 氏の "Aussie Slang" の本などでちょっと調べてみた。

Aussie
noun:- someone from Australia - an Australian
ご存知のオージー。これは説明するまでもないだろう。

barbie
noun:- Barbecue. Similar to a cook out, a barbie is a popular way to get together with friends in the warmer months of the year.
バーベキューのこと。

blowie
noun:- a blowfly, a large and very noisy fly.
うるさい(五月蝿い)蝿(クロばえ)のこと。こう言うと蝿もかわいく聞こえる。

bushie, bushy
noun:- a country person who resides in the bush
田舎もの、田舎の人。(ブッシュの中に住んでいる。)

chippie, chippy
noun:- a carpenter.
大工さん。ここの 'chip' は「かんなくず」。「かんな屑を出す人」だろう。

chockie
adverb:- chocolate
チョコレート色の……。チョコレートでくるんだ……。

Chrissie
noun:- Christmas
クリスマス。Aussie にかかるとクリスマスもこうなる!

darkie
noun:- a Australian aborigine, used in the past in a demeaning manner, out of use today.
アボリジニの人を表わす差別用語。今は使われていない。

ivories
noun:- your teeth.
verb:- to play the piano
歯。色がアイボリー色だから。
ピアノ鍵盤は象牙でできているから、「ピアノを弾く」の意も。

leftie
noun:- Anyone with socialist or communist leanings.
思想が左よりの人。日本で「レフティ」といえば左利きのことだが……。

lippie
noun:- lipstick
口紅

Mozzie
noun:- mosquito


mushie

noun:- a mushroom.
マッシュルーム

oldies
noun:- the parents.
(歳とった)両親

pommie
noun:- A person from England, probably derived from Prisoner Of Mother England.
イギリスからきた人。多分植民時代初期の「流刑移民」 Prisoner "P" から来ているものだろう。

postie
noun:- postman
郵便集配人

pressie
noun:- present, gift.
プレゼント。クリスマス・プレゼントは "Chrissie Pressie" となるの?

schoolie
noun:- a teenager of school age or just graduated.
Schoolies week is now quite a tradition where High School graduates
celebrate the end of the academic year with a week of revelry in
southern Queensland.
学校に行っているか卒業したばかりのティーンエージャー。クイーンズランド南部の高校生が学年の最後を1週間「酒盛り」で祝った…… "Schoolies week" というのも今では伝説。

sickie
noun:- a day off work, although often the reasons
for taking a sickie have nothing to do with sickness or health but
rather with recreation and enjoyment. On a very hot day, it is amazing
the number of people who take a sickie.
仕事が休みの日。しかし、しばしば病気を装った「ずる休み」の意味に使われる。

stubbie, stubby
noun:- a small short necked bottle of beer (375ml). Not to be confused with the Darwin Stubbie.
言わずもがなの「ビールの小瓶」375ml入り。
しかし "Darwin Stubbie" はちょっと違う。
Northern Territory では暑くてのどの渇きが激しいので、1.25l入りの Stubbie が造られているとか……ほんまかいな?

Tassie
noun:- Tasmania
タスマニア

trannie

noun:- a transistor radio. Also the transmission of a car. Or even a transvestite.
トランジスター・ラジオあるいは車のトランスミッションのこと。「服装倒錯者(例えば、女装趣味の人)」のことを言うこともある。

undies
noun:- underpants, briefs or jocks.
パンツやブリーフなどの下着

veggies
noun:- vegetables
野菜

などなど、結構面白い。

How about celebrating the Aussie Chrisie on the beach by having a barbie,
eating roo-meats, mushies, veggies and drinking XXXX stubbies?
と、こういう具合になる・・・・・・。